2016年01月25日

『崩れゆく世界 生き延びる知恵』副島 隆彦, 佐藤 優



本書は、最近対談ものが多い副島隆彦氏と佐藤優氏の対談です。対談本の難しさは、知的レベルや教養の差がありすぎても困りますし、対談者の意見が食い違いすぎてもまとまりません。かといって、全く同じ意見の二人が対談したのではおもしろみがありません。

その意味では、副島氏と佐藤氏の対談は、非常にスリリングで有りながら、それぞれが安定した知性を背景にして語っているため、刺激的な読み物となっています。

イスラム国の脅威やウクライナの政変を取り上げ、世界で起きている事が日本に及ぼす影響を語り合います。

お二人とも、テレビなどのメディアからは(政府の指示で? あるいはマスコミの自主規制で?)取り上げられない人たちですから、商業主義的なスポンサーや政府(政府だってテレビにとっては大口スポンサー)に媚びない意見を投げ合えます。

そのため、テレビや新聞からは知ることのできない情報や考え方をふんだんに味わえ、ページをめくる度に「アハ」体験できるでしょう。

例えばピケティの格差論に大衆が喜んでいることに対し、官僚独裁社会への警鐘を鳴らします。

また、インフレターゲット政策や株価操作政策に対しても、それらがどのように反知性的な政策であるかを解説します。

日頃、テレビや新聞を通して世の中を見ている人にとっては、驚きの連続かも知れません。自分が洗脳されていることに気付く機会を得られるかも知れません。

まぁ、洗脳されている方が幸せかも知れませんが。

また、私の様な物を知らない者にとっては、知性以前に知識や教養がなければ世の中でおきている事を理解出来るはずがないということを、厳しく思い知らさせてくれる本です。
posted by しげぞう at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月18日

『明治維新という名の洗脳 150年の呪縛はどう始まったのか?』『洗脳経済 150年の呪縛』苫米地 英人




今回は上記2冊の本を続けて読みました。同日に出版された本で内容も繋がっていますが、どちらを先に読んでも理解し易いですし、興味深く読める内容です。

まず『明治維新という名の洗脳 150年の呪縛はどう始まったのか?』では、日本人に刷り込まれている明治維新が素晴らしい民主革命であったという印象は、洗脳された結果として持たされてしまった印象だということから脱洗脳が始まります。

特に、(私もそうですが)司馬遼太郎の作品に出てくる明治維新が、明治維新の本当の姿を隠してしまい、NHKが司馬作品を多く利用して国民を洗脳してきたことまで言及しています。

また、明治維新が欧米からの植民地化を防いだ偉業であるという印象も嘘で、欧米の金融支配を許すことと引き替えに薩長が行った特権階級による恐るべき日本支配の仕組み作りが、明快に暴かれていきます。

特に冒頭で、「長州藩」という実在していない藩を、(私もでしたが)多くの日本人が実在していると信じていることから、洗脳の成果を指摘されたことで、一気に引き込まれていきます。

そして『洗脳経済 150年の呪縛』では、より経済に重点を置き、明治から日本国民を経済奴隷として洗脳してきた欧米の金融資本とその手下となることで特権階級となった薩長の活動が、現在も続いていることを明らかにします。

タイトル通り150年続いた洗脳は、未だに国民を経済奴隷であることから目覚めさせないように仕組まれていることを明らかにします。

そのためにマスコミが利用されていることなども明らかにします。

若干、『洗脳経済 150年の呪縛』の方が、後半難解な部分が出てきますが、読み始めたら止まらなくなります。

そして、読者は、自分たちが洗脳された経済奴隷であることを知らされるのですが、今後の行動は読者自身の決断に委ねられます。

著者は、国民が覚醒することを願いつつ筆を置きますが、残念ながら私個人が辿り着いた結論は、

──奴隷のままで構わないから、ささやかな幸せに満足して安らかに逝きたい──

でした。

そう、この洗脳は、既に隷属していることから脱する意欲すら持たせないほど強力な様です。


posted by しげぞう at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

『日本とユダヤ 聖徳太子の謎』久保 有政



聖徳太子にキリスト教の影響があるのではないか、ということは以前から言われていましたが、学会ではこのテーマを深掘りすることはタブーのようです。

そのため、歴史家から聖徳太子とキリスト教を関連づける書は出されていませんでした。

聖徳太子もイエスも、馬屋で生まれたこと。両者とも王家の血を引いていながら悲劇的な最期を遂げていること。子孫を残していないこと。共に大工の信仰が厚いこと。共に未来を予言(預言)したこと。

これらの謎に挑んだのは、日本古代にユダヤ教や原始キリスト教が入り込んでいたことを研究し続けてきた久保有政氏でした。

私は氏のファンであり、氏の著書は既に何冊か読んでいましたので、本書には既著と重複する話も多く出てきましたが、テーマが聖徳太子ということでしたので、新鮮な気持ちで読めました。

まず、衝撃的だったのは、聖徳太子は本当に仏教徒だったのか、という疑問を提示していることです。そして、数々の傍証から、太子が実は何らかの一神教を信仰していた可能性が高い、という疑惑を浮き上がらせていることです。

次に、太子に寄り添うように存在していた秦氏の正体を、古代神道の正体と共に明らかにしていきます。その神道には、明らかに原始キリスト教の影響が見られるのです。

また、太子の死後の扱いにも注目します。何故、王家の血を濃く引いた太子が、当時のしきたりだった殯(もがり)もされずに即効で埋葬されたのか。そこに暗殺の可能性を探ります。

そして太子由来の寺社仏閣に隠されたキリスト教の痕跡や、地名に隠された謎が解かれます。

さらに日本神話の系図と旧約聖書の類似性も興味深く説明されています。

また、仏教界が聖徳太子を仏教の立役者であるとでっち上げた可能性と、その虚像が日本人に刷り込まれてしまった可能性に関する説明は、とても説得力があります。

聖徳太子ってなんだか良く分からない、あるいは法隆寺や四天王寺ってなんだか怪しい、などと思っている人には是非読んで欲しい本です。
posted by しげぞう at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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